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2010年8月

モルダウ スメタナ

 今度の定期でモルダウをやることになっている。
 昔「わが祖国」なんてほとんど価値がない、せいぜいモルダウしか要らない、みたいな評論(だれだったかな、週間FMだったような気がするが)を読んで以来、なんとなく気持ちが入らなくて、ほんとに一生懸命聞いたことがない。モルダウもきれいな曲だとは思うけれど、なんというか、高揚感なんてないなあ。
 チェロは2部に分けて書いてある。全然別の楽譜になっているので、裏表ではなくて、普通は奇数プルトと偶数プルトに分けるのだろうか?でもうちは前のほうと後ろのほうに分けることになった。後ろのほうがコントラバスと同じことをやっているところも多いようで、こちらのほうが良いような気がするが、どうだろうか?
 川の流れを現す最初のあたり、少なくとも弦はそんなにきちんとそろってきちっと弾かなくてもいい、川の流れってそんなそろってないでしょ?と指揮者が言ってくれて、なるほど、良かった良かった、要所要所があっていればいいんだろう。楽譜はimslpでパート譜も手に入る
 http://imslp.org/wiki/Vltava,_JB_1:112/2_%28Smetana,_Bed%C5%99ich%29

  ともかく暑くって全然練習してない。まずいなあ。
 ハーモニカはひとつの音だけを出すことが難しい。

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ハーモニカ

ハーモニカ
クロマチックハーモニカを衝動買いしてしまった。

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川干上がる

10828kawa 夕立もないもんだから、川はすっかり干上がってしまった。朝から暑くて楽器にも触らず、ぐずぐず過ごして、夜はビール。なんて非生産的生活なんだろう。

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下界は暑い

10825kamo 下界に帰ってきた。暑い。前の川は苔だらけでなんだかこれも暑い。カモもなんだかぐったりしているような気がする。

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遅い夏休み

遅い夏休み
遅い夏休みを取って、女神湖付近に来た。下界は暑いらしいが、涼しくて快適だ。次女は持ってきたポータブルDVDでいつものを見て、踊っている。

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耕耘機の故障

 雨が降ったから畑を耕しに来てくれと母からメールがあったので、しょうがない、6時起きして少しでも涼しいうちに行った。もう堆肥と石灰が蒔いてあって、ただかき回してくれればいいというので、さっそく耕運し始めたのだが、5mほどでぷすぷす、と止まってしまった。いろいろ動かしたり、隣のおじさんにプラグ回しも借りて、かぶってないか確かめたりいろいろやったのだが、どうしようもなくて、隣のおじさんは農家だし、それでもわからないんじゃあどうしようもない。母が農協に電話して、なかなかすばらしい、じきに来て見てくれた。そうしたら何の問題もなく、動いた。なぜ?1月ほど動かしてなかったので、チューブ?のあたりのガソリンが変質していたのかも、とのことだが、うーん、そうかなあ、やはり人を見て機械も動くのか。
 でもまあ、頼まれていたろくでもない額はかけられたし、仏壇の割れたガラス板はアクリル板を切って換わりに入れられたので、まあいいか。

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ヒヨドリの雛

2010819hina 部分的にしか冷房のない我が職場。部屋に帰ってきたら、鳥らしい鳴き声がやけにうるさい。少しでも風が抜けないかととなりの窓を開けていたのだが、鳥の雛が入り込んでやたらに鳴いていた。外に出してやると親らしいのが警戒しながら近くまで来てやっぱりうるさい。ヒヨドリの雛だったのかとやっと気づいた。しばらくしたら飛んでいったのか連れられていったのか、いなくなっていて静かになった。毎日暑いが、今日は少し楽だったかな。

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茄子てぬぐい

10817nasu ホームセンターに行ったら手ぬぐいが300円で売っていて、うれしく買ってきた。地の方が茄子紺(とは違う色か…)というのがなかなか良いと思うのだが。

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トマソン

2010816tomason トマソンを見つけた。昼食時に街を歩いていたら、なんじゃありゃあ、ドアを開けたら落ちてしまう。こちら側は取り壊したんだろう。
 自分で実際に出会ったのはもしかしたら初めてかも知れない。ちょっとうれしくなった。

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戦争こと

 ここんところ、原爆記念日(に米駐日大使が参加したとかしなかったとか、他の国のこととか)のこと、終戦記念日のこと、管総理の談話、14日のニュースでは終戦の前日8/14の大阪大空襲のことを見たり、今日は今日で靖国神社、いろいろ考えさせられたり、昔考えたことを思い出したりした。

 それにしても、韓国にあの程度の謝罪をすることが自虐的だという考え方は、いったいどういうんだろうね。そういえば例の田母神が、日本が悪いことをしたと思っていては国を守れない、みたいな事を言ったのは印象的だった。そんなに謝罪するのがいやなのか、韓国のものを韓国に返すのがいやなのか。なんていうのか、自分に自信がないのかね、あるいはけつの穴が小さいのか。けつの穴史観とでも呼ぼうか。

 そういえば南京大虐殺が「なかった」と主張する人々がいる、というのもずいぶんすごいというか、あきれた話だと思う。もちろん中国が言うように30万人ほどだったのかどうかは、わからないけれど。南京事件そのもののいろいろな証言や記録、それにその他にもたくさんある虐殺事件や、当時の軍人の本当にあきれ返ったエピソードを腐るほど聞いて、なかったはずがない、と誰でも思うはずだ。そう、そういう日本軍のエピソードを聞くと日本人て、ドイツナチスにも勝るほど非人間的なんじゃないかと思って悲しくなる。

 もちろん、虐殺したのは僕じゃない、親でもない。親も家族もどちらかと言えば被害者だ。当時虐殺にかかわったのは日本人のほんの一部なのは確かだし、無理やり命令されていやいや殺した人の方が多かったかもしれない。それでも日本人の多くがチャンコロなんか虫けらだ、殺したって当然だと思っていたのも確かだと思う。そう教えられていたんだし。

 今書いた「日本人の多く」がどのくらいの割合なのか知らないけれど、
 2005年の中国の抗日デモで、日本人の営業する店を破壊するような事件があったけれど、中国人の多くは日本人は鬼だ、店を叩き潰したって当然だと思っていた(いる?)んじゃないだろうか。「中国人の多く」は「日本人の多く」ときっと同じくらいに違いない。

 広島長崎(それに多くの空襲)で死んだ民間人はまさに虐殺されたと言っていい。実験のためにウラン型プルトニウム型2種類、ドイツでなく日本に落としたアメリカはもっとはっきり非難していい。だが、エノラ・ゲイの元パイロットにインタヴューしたってしょうがないと思うけれど。

 戦争はしてはならない。本当に戦争をしてもいいことはない、特に一般人にとっては。戦争は何の解決にもならない。そう強く思うが、いっぽうで、北朝鮮のこと、異教徒の考えは認めない、力で倒す、仏像は破壊するというイスラム原理主義や、ここは神が私たちの民族のために用意してくれた王国だ、異教徒は出て行けというイスラエルや、それを公然と支援するアメリカのことやらなんやら考えると、いったいどうすればいいんだろうとも思ってしまう。

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映画「長い散歩」

 映画「長い散歩」奥田瑛二  緒方拳

10815sanpo  NHKで「長い散歩」をやると言うので、録画しておいて、最近やっと見た。緒方拳の相当最後のほうの作品だし、奥田瑛二の監督、どうなんだろう、気になっている作品だった。観ているうちはまあまあ楽しんで観ていたと言っていいと思うのだが、最後のシーンあたりで、漠然としていた不満が意識化されていっきに、なんだやっぱりだめだなあと言う感想になってしまった。
 最後のあたり、緒方拳が泣き崩れるあたりなのだが、あんなふうに人は集まらないよなあ。黒山の人だかりにはならない。何人かは集まるかもしれないけれど、あとは基本的に知らぬ顔で通り過ぎるか、遠巻きに見ているだけだ。この作品の状況だったら、そういう中で、若いおっちょこちょいのが「おい、じーさん、おめー、テレビで見たぞ、誘拐犯だろう?」とか、何とか言って、襟首をつかむとか、おせっかいのくそばばぁのほうが若いのより先に気づいて近づくかもしれない。くそばばぁなら、きっとじーさんのほうにはけっして話かけず、子供のほうに「ねえどうしたの?このひとあなたのおじいさん?無理やり連れられてきたんじゃないの?」とかなんとか言うんじゃあなかろうか。
 神は細部に宿るとかなんとか、そんなレベル以下の話で、普通の感覚であんなのありえない。そう思って思い返すと、全体に確かに美しい映像だし、ストーリーもそれらしいのだが、なんだかうすっぺらい。10語れるところを1だけ語って余韻を残すんじゃなくて1しかないらしいんだなあ。ザンビアの話なんかいかにもそんな感じで、後ろに何にも隠れてそうもない。拳銃の扱いもいかにも唐突だし、なにより、主人公の過去と現在がつながっているように描けていない。なんなんだろうなあ。がっかりした。
 だいたいこれ、長い散歩じゃあないよねえ。散歩ならぶらっと出るもんだ。これはやはり旅(本人にもそう言わせている)。これは「短い旅」と言うべきだ。でもそれじゃあ、映画の題にならないよねえ。困ったもんだ。

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夏風邪?夏バテ?

 夕べの食事のときは全然食欲がなくて、熱を測ると37.9℃だった。すぐ寝た。
 今朝も37.9℃ 左の股関節が痛い、赤くはれている。
 昨日はひさしぶりにバドミントンをした。この暑いのに暑い体育館でご苦労さんなことだが、割と元気でダブルスを2ゲーム、なんとシングルも2ゲームやった。年寄りの冷や水。それでも夕食のときまで全然問題なかったので、バドミントンのせいなのか、ただの夏風邪か、わからない。股関節には前から関節遊離体を飼って?いるのでそのせいだと思うのだが、まだ痛いので頭にくる。
 10時頃36.5℃ 11時過ぎ37.1℃ その後もずっと微熱。せっかくのお盆休みなので早く治ってほしい。

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「常識としての軍事学」 潮匡人

100808_1457_0001 「常識としての軍事学」 潮匡人 (うしおまさと)中央新書ラクレ

 著者のことくらい調べてから借りればいいのだけれど、ほかの本のついでに借りたもので、適当に題名だけ見て借りた。軍事の常識なんて面白いのだが、そうじゃなかった。まあ、予想していたとおりと言うか、それ以上(というか以下)だった。どういう本かというと、


 軍事はすばらしい、軍服かっこいい。軍事は日常にあふれている、インターネットはアメリカ軍が作った…。日本経済再生の鍵は軍事。…。と言う感じ。

 だれだって内輪びいきというか、自分と関係あることをよく言うのはわかるけれど、あまりにもトンチンカンだし度が過ぎてる。どのページにもどのページにも、「軍事はすばらしい」、どれもこれも「起源は軍」、「バカ左翼」…なんだもん。自分と考え方の違う人たちのことはすべてひとからげに「左翼」と呼ぶらしい。
 軍事的技術が世の最先端を行くのは当然だろう。だからかっこいいの?「防衛大学生を誇りに思う」から、「防衛大学の志願者が激増する方向へ働きかけたい」のだそうだ、ふーん。
 内容とは関係ないが、何度か仮説という言葉を使っているが、どうも日本語がおかしいんじゃないかね?小学校6年生のような使い方をしている。全体的に小6程度の論理展開のようだ。戦略と戦術のところはどちらがどちらの説明なんだか、まったくわからないように書いている、編集もチェックしないのかよ。

 事実や資料で見るべきこともあるんじゃないかとも思ったが、でもいまやwikiやらなんやらすぐ調べられるからなあ。もちろんそれで食ってるらしいから、ある程度の情報はあるらしい書き方ではある。だからからか、諜報戦のあたりは比較的面白く読めた。そのあとはまた全然だめで、やっぱりこいつは小6程度の知能なんだな。

 というわけでほとんど見るべきものがない本だった。まったく先入観なく読み始めてそれでもほんの数ページで化けの皮がはがれるような内容。まあ、著者は小林よしのりとか、田母神俊雄とか、どうしようもないのと一緒らしいから、推して知るべしか。

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冷や汁でうどん

108surikogi 朝、ご飯を炊いて昼までに冷えないといけない(と言うわけではなく、宮崎の方の冷や汁は温かい麦飯だそうだけれど)ので、土日に寝坊するとなんだかテンションが下がってしまう。ここ続けて週末の昼食は冷や汁でうどんだ。うどんは太め、冷や汁は相当濃く作るのがうまい。次女がそうめんを好むのだけれど、太い方が圧倒的にうまいのだ。

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谷川俊太郎のこと

10802tanikawa_2  谷川俊太郎を知ったのは、「生きる」だったか、それとも「落首九十九」のどれかだったかな、教科書に載っていたのかもしれない。詩なんて書く習慣も読む趣味もないが、谷川俊太郎だけは本当にすばらしいと思う。(と言ったってほかに詩人なんてほとんど知らないのだけれど。)
 詩に限らないと思うけれど、人が感心したり、感動したりするのは、うすうす感じていたり、そこまでもいっていないことを具体的に見せられたときだと思う。それを本当に平易な言葉で凝縮して見せてくれるのが谷川俊太郎だと思うのだ。
 おおげさな感情の吐露でなく現代に生きる現代人の知的で明晰な(あるいはもしかしたらちょっぴり頭でっかちな)ところがとても好きだ。TVCMで一時流れていた詩で、地球は、自転しているから次々朝が来る、いわば朝をリレーしているのだ、と言うようなことをもちろん詩的に(って詩なんだが)書いていて、知的なことが詩的なのだ、なんて美しい表現なんだろう、と感心する。「生きる」も、一時ネットでみんなが自分の生きている瞬間を実感することを発言していると聞いたが、もちろんちいさなことに生きていることを実感する、という詩なのだが、この詩は最後の一行*なのだ。「かくされた」悪を「注意深く」「拒む」こと、という、つまりあからさまな巨悪ではなく、人の尻馬に乗ってやっつけるのではなく、拒む、のが生きることなのだ。

 現代音楽家はなぜ、全然美しくない、音楽とは言えない様なのしか書かないのだ?モーツァルトのまねでいいじゃないか、美しい音楽を書けばいいじゃないか、と思うのだが、それはシロート考えらしい。プロとしてはどうしてもモーツァルトの真似はできないらしい。それが僕には全然理解できない。
 でも一方で、谷川俊太郎を読んでしまうと、彼以降の詩人は大変だなあと思うのだ、彼のように平易に書くことは彼のまねになってしまう。プロにそれはできないだろうなあ。
 谷川俊太郎の書くものはモーツァルトのように、これ以上ありえないほどシンプルで、それでいて完成された美しさを持っていると思う。

*最後の一行と書いたけれど、最後じゃなくて真ん中あたりだった。すみません。それにしてもネット上ですぐに全文見えるってすごいなあ、詩に著作権は存在しないのか?

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発掘調査?

発掘調査?
市役所の斜向かいの店舗だったか、取り壊されていて、なんだか発掘?していた。なんだろう?

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